毎日新聞2ちゃんねるを逆恨み
仲間の記者が海外で起こしたトラブルの処理を担当したことがある。
帰国した後で、自分のことがインターネット上で、批判と揶揄の対象にされていたことを知った。
腹が立ったが、相手がわからなくては、なす術がなかった。
これが、ネット掲示板「2ちゃんねる」を意識した最初だったように思う。
仲間の記者とは毎日新聞カメラマン五味宏基。
トラブルとは、クラスター爆弾をヨルダンのアンマン空港に持ち込んで6名を死傷させた事件のこと。
あとがきを書いたのは、毎日新聞東京本社編集局長伊藤芳明。
人を死なせておいて「腹が立った」とは、もはや何も言うことはない。
批判した相手がわかっていたら、いったい何をするつもりだったのか。
爆弾魔の上司が批判されるのは、どう考えても当たり前のこと。
どうやら、人として最低限の良心すら持ち合わせていないらしい。
毎日新聞のネット批判はこの事件がきっかけとなったというのだから、どれだけ言葉を取り繕おうと、身勝手な逆恨みでしかないことは明白だ。
ヨルダンの事件から5年の月日が流れたが、毎日新聞は自らを省みるどころか、いっそうネットに対する攻撃色を強めている。
一昨日、店舗販売からネット販売へのシフトに伴い、実店舗は販売以外の価値の提供拠点として先鋭化するんじゃなかろーか、と書いた。
そこで今日は「販売以外の価値にはどんなものがあるか」、ちょっくら考えてみるです。
(1)買い物の楽しみの提供
何も買わなくてもショッピングは楽しい。ので、“ブラブラ商品を見てまわる楽しみ”を提供できる店は残りそう。というか、それを主目的に設計されれば、今より楽しいお店がでてきてもおかしくない。
一番わかりやすいのはドンキホーテみたいな店です。主要価値は“販売”ではなく“溜まり場の提供”“暇つぶしの場所の提供”にある。もちろん“付随機能としての販売”も行われるんですが。
百貨店ももういちど夢を売ることができれば、いくつかは残ると思う。昔の新宿伊勢丹とかそういう場所だったように記憶する。ショッピングセンターなら“子連れママのためのコミュニティの提供”を主目的に再設計すればいい。
もちろん収益はネット側(販売)であげるんだけど、“楽しい場所である実店舗”で「見た見たコレ!」というものを買って貰う。ていうか、雑貨とか点数が多すぎるので実店舗で購買意欲を刺激するのは大事なことだと思う。
窪田 僕は朝日新聞に30歳で入社したのですが、最初に給与の説明がありました。提示された金額を見て「ものすごくたくさんもらえるんだ」と思ったのですが、しばらくして労働組合の人からこのようなことを言われました。「我々の給与は安すぎる!」と。これを聞いて、僕は「この人たちは頭がおかしいな」と思いましたね(笑)。
給料以外にもガソリン代や住宅手当などもたくさんもらっていて、非常にいい生活を送ることができるんですよ。でも労働組合の人は「ケシカラン」というわけなんです。
で、上司に相談したところ、このように言われました。「なぜ我々が、高収入なのか考えてごらん。我々は権力を監視しないといけない。権力を監視している人間は、いろいろな誘惑に乗らないように、ある程度の生活保障が必要なんだ」と。
ということは給料の安い雑誌記者は、権力に迎合するということですかね、と聞いてみた。すると「そうとはいわないけど、我々は朝日新聞の記者。なのでそれ相応の報酬をもらわなければいけない。自分はもらいすぎだと思っていない」などと言ってました。
私たちが求めているのは「バカな、あるいは邪悪な権力者の排除」であって、システムそのものの崩壊ではない。
しかし、権力者はその定義からしてシステムの中枢に、深く巣喰っている。
これ「だけ」を取り出して、システムそのものは最小限の被害にとどめておかなければならない。
肉を切らせて骨を断つ。
そのアクロバティックな課題を解くために日本人が考案したのが、「権力中枢にできるだけバカで邪悪な人間を集めて、そこから先に腐らせる」という手法だったのである。
それを繰り返すことで私たちの国のすべてのシステムはイノベーションを行ってきたのである。
「権力中枢に蝟集するワルモノ」というのは、「お勉強のできる人たち」ということである。
秀才というのは、その定義からして「100点答案」を書くことにしか興味がない。
そういう人たちは「後退局面」とか「負け戦」とか「後始末」とか「負けしろの確保」とかいうことについては対応できない。
というのも彼らは「絶対負けない」ということを信条として、秀才としての自己形成を果たしたわけだからである。
こういう人たちは外交や軍事にはまったく向かない。
東条英機というひとは陸士・陸大卒の秀才であり、100点答案を書く名人ではあったが、軍事的にはまるで無能な人物であった。
1980年代から以降の経済活動はほとんどがこの「アイデンティティ基礎づけのための消費」に依存するようになった。
「名刺代わり」「表札代わり」に消費行動を行う圧倒的な数の消費者のニーズに依存して、後期資本主義社会は栄えたのである。
環境破壊と資源枯渇と先進国における人口減と金融ゲームの破綻によって、「資本主義市場経済の弔鐘」が耳障りな音を立てて鳴りだしても、消費活動を「アイデンティティ基礎づけ」的なものとして進めようとする諸君の頭のつくりは急には変わらない。
アイデンティティというのは幻想だからである。
消費主体が生理的欲求や物質的必要に基づいて消費している限り、人間の消費活動には限界がある。
どれほど卑しい人間でも、1日5食6食食べ続けることはできないし、服だって一度に一着しか着られない。
人間の身体が消費活動を限界づける。
しかし、消費主体が「自分は何ものか?」という幻想構築のために消費するようになれば、消費活動には原理的に限界がない。